町田バスセンターを調べてみました

町田バスセンターは、東京都町田市の町田駅に隣接するバスターミナルである。町田駅には町田バスセンター以外にも、町田ターミナル・町田ターミナル前・町田駅町田駅南口・町田市営駐車場入口の5停留所が存在するが、これらについてもここで記述する。2010年4月現在、町田駅には前述の通り町田バスセンターを中心とした6つの停留所がある。2002年のデータによると、バスセンター・ターミナル・町田駅の3つを合わせた乗降人員は多摩地区で1位、都内でも渋谷駅に次いで2位と、非常に多くの人が利用している。これらの停留所は元々、小田急小田原線新原町田駅に存在していた「新原町田駅」と、JR横浜線町田駅に存在した「原町田駅前」の2つの停留所からなり、森野方面のバスは全系統が原町田駅から新原町田駅を経由して運行されていた。ところが、1966年に新原町田駅-原町田駅で当時経由していた町田街道(現・旧道、原町田中央通り)が大型車通行規制によってバスが通行不可能となり、森野方面のバスは新原町田駅発着とならざるを得なかったものの、新原町田駅に操車場がなく、道幅の狭い鶴川街道を使用しての折返しを行う事になった。

これでは一方通行路はバスや乗降客で溢れ返り、非常に危険な上、混雑も多発する様になった。(町田駅発着は現在もこの一方通行路で運行している)。これを改善するため、現在のバスセンター付近に「新原町田駅緊急バスターミナル」を設置し、一部を除き新原町田駅を経由(通過扱い)の上、緊急バスターミナル発着とすることで、麻痺状態にあった交通がだいぶ緩和された。この緊急バスターミナルが町田バスセンターの前身である(この当時、市民ホール方面への広い道路は未開通だった)。その後、駅周辺の再開発に伴い、現在の森野駐在所-市民ホール-町田バスセンターの道路が完成したため、緊急バスターミナル発着のバスはこの道路を経由する様になり、新原町田駅発着は激減、この際に停留所名称を「町田バスセンター」とした。この後にも新原町田駅停留所の名称を町田駅へ改称し、原町田駅停留所も駅名改称時に町田駅国鉄)に改称、1983年には町田ターミナルプラザ・バスセンター-ターミナルの道路の完成により「町田ターミナル」停留所が開業し、一部路線がこの区間の直通運転を開始する。

なお、この際に町田駅国鉄)停留所は規模を縮小して町田ターミナル前停留所に改称した。なお、町田ターミナル前停留所は、町田ターミナルプラザ1階(町田ターミナル停留所)が市条例に付随する規則により9時から21時(現在は9時から最終便)までしか利用できないため、時間外における代替停留所として残されたものであり、「町田ターミナル」と「町田ターミナル前」は同一停留所と見て差し支えない。以上の経緯で、町田駅の停留所は移設や改称を繰り返しながら4ヶ所になったのである。また、1981年12月27日から1992年3月29日まで、JR町田駅南口(現在のヨドバシカメラ辺り)に「町田駅南口」停留所が存在した。これは原町田駅から上鶴間本町・相模原市方面へ向かっていた路線の発着のために新設されたものの、もともと発着本数が少ない上、特にこれといった案内がされる事もなく、10年程度でターミナル着・バスセンター発に置き換えられて消滅した。その後、2009年7月18日からは、金森地区コミュニティバス「かわせみ号」・町田駅ルート発着のため町田駅南口停留所の再設および町田市営駐車場入口を新設した。

なお、町田市営駐車場入口停留所は、JR町田駅ターミナル口の南側(相模原市側)出口に近く、かつて存在した境橋停留所に程近い。なお、2009年4月まで成瀬・金森方面からの路線は、朝のみ各方面→ターミナル前経由バスセンター着、バスセンター始発原町田四丁目経由→各方面、その他時間帯は各方面→ターミナル止まり、バスセンター始発ターミナル経由→各方面の経路で運行されていた。これは、ターミナルビル使用時間の関係や、バスセンターに降車・待機場所が無く、バスセンターまで客扱いが出来ないことによるもので、通勤時間帯の利便性のため朝時間のみバスセンター8・9番のりばを移動し、通常の8・9番乗り場を降車場とすることによって対応していた。しかし、乗客から見た場合非常に不便であることや、町田ターミナルの改装(観光バス乗り入れ)のため、2009年4月6日より従来の8・9番乗り場を終日降車場とし、朝専用の8・9番乗り場を終日使用とすることで全便がバスセンターへ乗り入れるようになった。

これに際して運行経路も変更し、町田行は全便が各方面→ターミナル前経由バスセンター着、町田発は朝9時までバスセンター始発原町田四丁目経由→各方面、朝9時以降はターミナル発バスセンター・原町田四丁目経由→各方面となった。なお、小田急バス柿20系統は従来通りの経路で、乗り場の変更は無い。

1930年-町田乗合バス会社(現在の神奈川中央交通)が原町田駅〜図師・原町田駅〜鶴間に路線開業。
1966年-原町田中央通り(町田街道旧道)の大型車通行規制により、上宿・本町田方面への路線を原町田駅発着から新原町田駅発着に変更。
1967年8月10日-大型車交通規制で発生した新原町田駅付近バス運行麻痺対策で、この日から緊急バスターミナルを使用開始(現在の町田バスセンター)。
1970年1月1日-緊急バスターミナル発着の路線を現在の市民ホール方面に抜けるルートに変更。バスセンター本格開業。
1976年4月11日-小田急線駅名改称に伴い、新原町田駅町田駅に改称。
1980年4月1日-横浜線駅名改称に伴い、原町田駅町田駅国鉄)に変更。原系統と町系統を統一。
1981年4月1日-町田バスセンターを改良・使用開始。西友前・島に乗り場がある現在に近い形になる。
1981年12月27日-町田駅南口バス停使用開始。
1983年10月31日-ターミナルプラザ開業により町田駅国鉄)を町田ターミナルに改称。バスセンター〜ターミナル直通開始。
1988年7月1日-第2次バスセンター改良工事により、新・町田バスセンター使用開始。乗り場・形は現在と同じ配置。
1992年3月29日-町田駅南口バス停廃止。
2009年4月6日-大和営業所管内の路線で経路変更・新設(町89)
2009年7月18日-金森地区コミュニティバス「かわせみ号」町田駅ルート新設に伴い、町田駅南口バス停再使用開始。

本町田って

本町田は、東京都町田市の地名。郵便番号は194-0032。人口は26,979人(住民基本台帳2009年12月末現在)
町田市中部に位置する面積の広い町域で、大規模な集合住宅も集中するため市内で最も人口が多い。多摩丘陵の南西縁に接し、近隣の中町・原町田などが多摩丘陵相模原台地の境界部となる。江戸時代以前の町田とはこの地域を指し、町田村の中心地であった。東は玉川学園・金井町、西は山崎町・木曽東、南は旭町・中町・南大谷、北は山崎町と接している。公社町田木曽住宅や公団藤の台団地、公社本町田住宅をはじめとした集合住宅や団地が多く、全域にわたって住宅地が広がる。恩田川(町田川とも呼ばれた)の源流域(わさび沢川・今井川)で地内の各所に湧水地が点在するほか、北東部の藤の台団地・丸山・今井周辺は、薬師池公園や七国山、玉川学園などと接するなど、所々に里山や山林も残っているため、分村後に市街地化した原町田に比べて自然が目立つ。南北方向に鎌倉街道が縦貫しており、経由地となる井出の沢(菅原神社)にて北条時行足利直義が争ったとされる。縄文時代から集落があったことがわかっているが、集落は散在する程度と考えられている。鎌倉時代頃より鎌倉街道の要所として宿場街となり、次第に栄えていった。
1582年(天正10年)農地拡大のため近隣の原野を開拓、町田村から原町田村を分村した際、町田村が本町田村と称したことから。
1335年-井出の沢の合戦、北条時行軍が足利直義軍を破る。
1582年-農地拡大のため近隣の原野を開拓、町田村から原町田村を分村。その後本町田村と改称する。
1630年-向村付近に菅原神社建立。
1868年-武蔵知県事に属す。
1871年-廃藩置県により東京府多摩郡町田村となるものの、神奈川県知事・陸奥宗光の上申により神奈川県に移管され、神奈川県多摩郡町田村となる。
1873年-区番組制により8区2番となる。
1878年7月22日-郡区町村編制法により、南多摩郡に属する。
1884年-連合戸長役場制により原町田村・本町田村・森野村・南大谷村・金井村が5か村連合となる。連合戸長役場は原町田村に置かれる。
1889年4月1日-原町田村・本町田村・森野村・南大谷村が合併し、町田村となる。旧本町田村の村域は大字本町田となる。
1913年4月1日-町田村が町制施行し、町田町となる。
1893年4月1日-南多摩郡を含む多摩全域が神奈川県から再び東京府に移管される。
1927年4月1日-小田原急行鉄道が開通するが、本町田に駅は設置されていない。
1929年4月1日-小田急線に玉川学園前駅が開業する。
1958年2月1日-町田町忠生村鶴川村堺村対等合併し、市制施行し町田市となる。
1966年-住宅公団によって本町田地域の大規模団地開発(現在の藤の台団地)が発表される。そのため遺跡発掘調査に着手(1967年〜1968年まで)発掘された遺跡は本町田遺跡群(A〜M地点)と呼ばれ、本町田遺跡公園と整備される。
1965年7月1日-本町田、原町田、南大谷のそれぞれ一部で住居表示を実施、中町一〜四丁目を新設。
1966年7月1日-本町田、原町田、木曽町のそれぞれ一部で住居表示を実施、旭町一〜三丁目を新設。
1967年7月1日-本町田、南大谷、成瀬、金井町のそれぞれ一部で住居表示を実施、玉川学園一〜八丁目を新設。
1970年-公団藤の台団地・公社町田木曽住宅の入居が順次始まる。
1973年11月3日-町田市郷土資料館(現町田市立博物館)開館。
2007年12月1日本町田、木曽町、根岸町、山崎町のそれぞれ一部で住居表示を実施、木曽東一〜四丁目を新設。
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
一部地区で住居表示が実施され、南部の一部が旭町一〜三丁目、中町二丁目から四丁目に、北東部の一部が玉川学園などに編入されており、現在の本町田の町域とかつての町域は一致しない。
現在の本町田では小字が廃止されているが、かつてはいくつかの小字が存在していた。現在でも地区名や自治会の名称として使用されることがある。昭和以降の宅地開発が行われるまで、市街地や住居は鎌倉街道に沿った宿・一色・後田・今井地区に集中していた。
以下は本町田の南部より記載する。
上ノ原
現在町田郵便局や都営中町四丁目アパート、東京都立町田高等学校が存在する地域である。かつては本町田だったが、住居表示の実施に伴い中町および旭町へと変更された。

向村
菅原神社が置かれている。かつては湧水地があったことから、付近は井出の沢(井手の沢)と称されることもあった。

現在の菅原神社交差点付近。
宿
町田村中心地で、鎌倉街道の宿場として栄えた。近年までかつての雰囲気を残す街並みがあったが、鶴川街道の拡幅や宅地化に伴い姿を変えつつある。

現在の日向台住宅南部・日向台交差点・養運寺付近。
一色
町田宿の北端付近から町田川(現在の恩田川源流端の一部で今井川)沿いに広がる地域。鎌倉街道は一色付近から向村の南までの間、町田宿を経由するルートと経由せずに菅原神社の裏側を抜けるルートが存在しており、町田宿からは更に成瀬方面を経由するルートに分かれていた。

現在の木曽団地東交差点(ひなた村停留所)・本町田停留所周辺の広い範囲。
後田
一色の東側にあたる地区で、現在のひなた村から本町田東小学校付近までの範囲。古来からの小字に良くあることだが、他の小字(一色・宿)との境界は曖昧である。


上記の一色の西側に広がる地域。一色の西部から原には桑畑や田畑が広がっていた。この旧字名は町田市立原小学校(現在は本町田小学校)やバス停留所名(原田向)などの名称にも使用されている。

現在の町田市立本町田小学校付近。
滝ノ沢
本町田の西端で、恩田川源流端の一部となるわさび沢川(滝ノ沢)の水源地である。

現在の町田市立町田第三中学校付近。
今井(今井谷戸
町田川の源流付近であり、深い谷戸沿いに広がる地区。鎌倉街道は上記の向村及び宿より一色・後田を経由し、今井から七国山方面・薬師池方面へと抜けていた。

現在の今井谷戸交差点付近。
丸山
今井の東部付近で、山林や桑畑が広がっていた地区。近年の大規模集合住宅や宅地開発によって姿を大きく変えているが、現在でも僅かながら当時の山林や農地が残る。

現在の藤の台団地、本町田丸山緑地(町田えびね苑)付近。
他に合ノ原、芝生などが存在した。

町田市立国際版画美術館

町田市立国際版画美術館は、東京都町田市にある版画に関する市立の美術館である。版画専門の美術館として1987年、芹ヶ谷公園内に開館。展示室のほかに版画工房、アトリエを備える。
目的
内外にわたる美術・文化の交流の場として、版画を中心とする幅広い活動を展開し、市民の美術に関する知識及び教養の向上を図り、もって市民文化の発展に寄与するため。
開館時間
平日:10:00〜17:00(入館は16:30まで)
土日祝:10:00〜17:30(入館は17:00まで)
休館日
原則として月曜日
年末年始(12月28日〜1月4日)
観覧料
企画展示:展覧会ごとに設定
常設展示:無料
無料開放日
企画展示初日
2月1日(市制施行記念日)
4月19日(開館記念日)
11月3日(文化の日
所在地
東京都町田市原町田四丁目28番1号

町田東急ツインズ
町田東急ツインズは、東京都町田市原町田六丁目にある株式会社東急百貨店が経営する専門店ビルで、全国百貨店共通商品券も使用できる。TOKYUポイント加盟店。東急百貨店時代末期は、百貨店ビルと専門店ビル「TOKYUまちだandYOU」の2館で構成されていたが、東京急行電鉄が2006年2月に策定した「東急グループリテール事業リファインプラン」に基づき、百貨店ビルについては専門店ビルに業態変更した。なお、専門店ビルは以前は「まちだ東急スポーツ館」として営業していたが、1990年代前半に営業不振により閉鎖し、一旦建物を取り壊して、隣接の旧:日本電信電話株式会社の敷地と併せて新たに建て直したものである。

営業面積-31,952m²
イースト(旧・百貨店ビル)-地上8階地下3階建、営業面積22,950m²
エスト(旧・専門店ビル)-地上8階地下1階建、営業面積9,002m²
イーストとウェストとは地上5階の連絡通路で繋がっている。
2003年末まで、百貨店ビルと専門店ビルを繋ぐ地下連絡通路が存在し利用できた。
1980年(昭和55年)10月25日-本館(百貨店)・まちだ東急スポーツ館の2館で構成された、まちだ東急百貨店(株式会社まちだ東急百貨店)として開店
1989年(平成元年)8月-株式会社東急百貨店が吸収合併し、東急百貨店まちだ店となる
1992年(平成4年)10月-スポーツ館の跡地に専門店ビル「TOKYUまちだandYOU」(現:ウエスト)がオープン
2001年(平成13年)9月-「TOKYUまちだandYOU」および全館リニューアルオープン
2007年(平成19年)
7月31日-百貨店としての営業を終了
10月5日-専門店ビル(現:イースト)に業態転換し、「TOKYUまちだandYOU」(現:ウェスト)とあわせた2館で構成されたショッピングセンター「町田東急ツインズ」となる。看板も従来の白地赤文字の百貨店ロゴであるQマークから青地に白文字の"MACHIDATOKYUTWINS"に変更。
2008年(平成20年)3月31日-イースト屋上のプラネタリウム「東急まちだスターホール」を閉鎖
町田東急ツインズ(2010年2月24日現在)
イースト(旧・百貨店ビル)
RF-改装中
8F-シーズンダイニング(レストラン街)
7F-東急ハンズ町田店
6F-東急ハンズ町田店
5F-リミックスカジュアル-ウエスト連絡口「クリスタルブリッジ」
4F-レディスカジュアル
3F-ユニセックスカジュアル
2F-トレンド・トレジャーカジュアル
1F-FOODPATIOレ・シ・ピ町田(食料品)
B1-町田東急ストア(食料品)
B2-駐車場
B3-駐車場
エスト(旧・専門店ビル)
8F-レコファン(中古CD・DVD)
7F-リラクシングガーデン
6F-トレンドスポーツカジュアル
5F-ファミリーカジュアル-イースト連絡口「クリスタルブリッジ」
4F-GAP
3F-ライフスタイルカジュアル
2F-コムサストア
1F-コムサストア
B1-駐輪場
※ウエスト8階のブックオフは2009年11月10日に営業を終了し、12月11日に町田中央通り本館に移転(旧店舗の建て替え)して、リニューアルオープンした。

町田米軍機墜落事故

町田米軍機墜落事故とは、1964年4月5日に発生した航空事故である。
事故の経緯
同日嘉手納飛行場(嘉手納基地)を発進したアメリカ海軍の戦闘機(F8U-2クルセイダージェット戦闘機)が厚木基地へ向かう途中で故障を起こし、機体が町田市の中心部である原町田(現・原町田二丁目)に墜落した。墜落地周辺では衝撃及び火災により一般市民4名が死亡、32名の重軽傷者を出した。なお、乗員1名はパラシュートで近くの高ヶ坂団地に着地後、米軍病院に収容された。墜落地は当時の原町田の繁華街の一部をなしていたにもかかわらず、想像されうるほどの甚大な被害には至らなかった。要因として以下のようなものが考えられる。60度という角度で墜落したこと長距離飛行だったため、燃料が残り少なくなっていたこと、ジェット機の空中分解などがほとんどなかったこと、当時の町田市及び周辺住民が迅速な救助作業を行ったこと、墜落機は南南東の方向から墜落したと推測され、この事故の5ヶ月後におきた大和米軍機墜落事故のように、墜落後200m以上の滑走という事態が起こっていれば、町田市の中心部は甚大な被害を受けていただろうとは、当時の青山藤吉郎市長の談である。

事故後の経緯
町田市およびその他行政機関の迅速な作業により、生存者の救出や、現場の保全修復が滞りなく行われた。後年起きた米軍機墜落事故にみられた米軍による情報統制や現場介入といったことは行われなかった。ジョンソン大統領による弔問の覚書があったほか、厚木海軍航空司令官や厚木基地憲兵隊司令官、岩国基地司令官、在日米軍賠償部長などが即座に訪れ、陳謝を行った。墜落現場には今もなお、墜落機のエンジンが地中深く埋まっているとされる。墜落現場は事故直後は被災者の仮設住宅が設けられたが、今は月極駐車場となっており、墜落現場であったことを示すものは見当たらない。墜落現場は、国鉄町田駅小田急寄りに移転(1980年)するまでは、名実ともに原町田の繁華街の一角であった。町田天満宮を目の前にし、後年小田急寄りの隣接地にはスーパーダイエーの関東一号店ができるなど(今はホテルエルシー、町田市立中央図書館、日本最大級のザ・ダイソーがある)繁栄を誇っていたが、今は中心部の賑わいからは外れてしまっている。

続・周辺の施設など

町田市民文学館ことばらんど
町田市民文学館ことばらんど
施設情報
愛称ことばらんど
専門分野文学
管理運営町田市
開館2006年10月
所在地〒194-0013
東京都町田市原町田4-16-17
アクセスJR横浜線町田駅」から徒歩8分
小田急線「町田駅」東口から徒歩12分
ウェブサイト
表・話・編・歴
町田市民文学館ことばらんど(まちだしみんぶんがくかんことばらんど)は、東京都町田市の公立文学館。遠藤周作が亡くなった時にその蔵書や遺品の一部が町田市に寄贈されたことから、文学館開設の機運が高まり、当時の市長寺田和雄が、開設準備懇談会を、森村誠一を会長にスタートさせる。4年間の準備期間を経て、2006年に開館した。

もともとその地にあった原町田公民館の建物の一部を利用、増改築してつくられた。

建物は3階建て。1階に、町田ゆかりの文学者たちの著書とパネル展示、喫茶コーナーがある。2階は企画展示スペースと講堂。3階は、研究会、読書会などの利用のための大小の会議室がある。町田は、江戸期より文人歌人を多く出している。現在も赤瀬川原平常盤新平、など現役の作家、著述家、児童文学作家らが多数在住している。

町田ゆかりの文学者
八木重吉
北村透谷
八木義徳
白洲正子
白洲次郎
宮川哲夫
遠藤周作
峰隆一郎
野田宇太郎
若林牧春
谷田昌平
石川桂郎

東京都町田市原町田4-16-17
横浜線町田駅から東に徒歩5分程度。駐車場はない。

刊行物
『町田ゆかりの文学者 ことばの森の住人たち』2006年
遠藤周作とPaulEndo(ポール・エンドー)―母なるものへの旅』2007年
『町田市民文学館蔵 遠藤周作蔵書目録(欧文篇)光の序曲』2007年

町田郵便局
町田郵便局は東京都町田市にある郵便局。民営化前の分類では集配普通郵便局であった。
住所:〒194-8799東京都町田市旭町3-2-22

併設施設
郵便事業町田支店
ゆうちょ銀行町田店(本店町田出張所):取扱店番号01145
分室
分室はなし。過去に存在した分室は以下のとおり。
相模原分室-1960年(昭和35年)に廃止。
1872年8月4日(明治5年7月1日)-原町田郵便取扱所として開設。
1875年(明治8年)1月1日-原町田郵便局(五等)となる。
1881年明治14年)8月-貯金預所を設置。
1882年(明治15年)11月16日-為替取扱所を設置。
1890年(明治23年)4月1日-町田郵便局に改称。
1897年(明治30年)3月21日-町田郵便電信局となる。
1903年明治36年)4月1日-通信官署官制の施行に伴い町田郵便局となる。
1938年(昭和13年)8月1日-大野分室を設置。
1949年(昭和24年)4月1日-大野分室を相模原分室に改称。
1956年(昭和31年)11月1日-当局ならびに相模原分室にて電話通話および和文電報受付事務の取扱を開始。
1959年(昭和34年)2月-局舎新築落成。
1960年(昭和35年)6月16日-相模原分室を廃止。取扱事務は、新設の相模台郵便局に継承。
1972年(昭和47年)9月18日-町田市中町一丁目から同市旭町三丁目に移転。
1994年(平成6年)7月1日-外国通貨の両替および旅行小切手の売買に関する業務取扱を開始。
2007年(平成19年)10月1日-民営化に伴い、併設された郵便事業町田支店、ゆうちょ銀行町田店に一部業務を移管。

町田郵便局
郵便、印紙、ゆうパック内容証明
生命保険、バイク自賠責保険自動車保険がん保険、引受条件緩和型医療保険
郵便事業町田支店
町田市内の一部地域の集配業務
町田市内の町田西支店管内を除く市内郵便ポストからの取集業務
ゆうゆう窓口
ゆうちょ銀行町田店
貯金、貸付、為替、振替、振込、国際送金、外貨両替、トラベラーズチェック国債投資信託、変額年金保
ATM

周辺
町田警察署
町田中央公園(町田市民球場、サン町田旭体育館)
東京都立町田高等学校

アクセス
R横浜線小田急小田原線町田駅から徒歩約18分
神奈川中央交通バス町田郵便局前停留所下車
東名高速道路横浜町田ICから北西へ約6.5km

周辺の公共施設

町田市民病院
町田市民病院は、東京都町田市にある市立の病院。町田市民からは「市民病院」と呼ばれている。
1958年2月1日-開設
1997年3月-東棟とエネルギー棟の建設工事(第1期改築工事)着工
1999年10月-東棟とエネルギー棟が完成
2000年3月21日-内科など一部の科がA棟から東棟へ移転し業務開始
2005年3月-南棟(新病棟)の建設工事(第2・3期改築工事)着工、B棟とMRI棟取り壊し
2007年4月16日-入院診療費の支払にクレジットカードでの支払を開始。取扱可能カード会社は三菱UFJニコス発行のDCカードUFJカードNICOSカードMUFGカードVISAカードマスターカードJCBカード、アメックスが利用可能。その前はデビットカードのみ可能だった。
2008年1月31日-南棟(新病棟)完成
2008年4月12日-南棟(新病棟)の内覧会を開催
2008年5月1日-南棟(新病棟)業務開始、旧棟を閉鎖
2008年9月25日-小児科医不足が発生したため、午前8時30分をもって小児救急医療を休止。その後2009年4月11日土曜日午前10時より救急車、町田市内の開業医、準夜急患こどもクリニックからの急患診療依頼のみに限り急患診療を再開。
2008年10月1日-南棟5階の周産期センター稼動開始
2009年1月-A棟・C棟(旧棟)の取り壊し着工
2009年2月1日-地域周産期母子医療センターの認定を受ける。
2009年4月1日-地方公営企業法全部適用に移行、病院管理者設置
2010年10月-旧棟跡地に立体駐車場(第4期改築工事)が完成

診察科
内科(呼吸器科・消化器科)
循環器科
リウマチ科・アレルギー科
外科
小児外科
形成外科
心臓血管外科
整形外科
脳神経外科
皮膚科
泌尿器科
小児科
産婦人科
神経科・精神科
耳鼻咽喉科
眼科
歯科・歯科口腔外科
放射線
リハビリテーション
麻酔科(ペインクリニック)
漢方外来

町田警察署
町田警察署は、日本の東京都にある警視庁が管轄する警察署の一つである。大規模警察署であり、署長は警視正。警視庁第9方面に属し、町田市の大部分を管轄している。管轄区域が神奈川県の横浜市川崎市相模原市大和市と隣接している。JR・小田急町田駅周辺の治安悪化は警視庁管内でも顕著であり、隣接する神奈川県警察としばしば合同の取り締まりが行われている。
東京都町田市旭町三丁目1番3号
電話番号042-722-0110(代表)
最寄駅:JR横浜線小田急小田原線町田駅
1893年4月1日八王子警察署町田分署として創設。
1926年7月1日 町田警察署になる。
1992年8月13日 現庁舎完成。
2004年2月27日 別館が完成。
2009年4月20日 町田市北西部(相原・小山地区)を南大沢警察署へ移管

忠生地区交番 面積・人員共に日本最大の交番。平日に「車庫証明」及び「免許証記載事項の変更」の窓口業務を実施している。地区交番は警視庁管内において、本所のみである。(平成20年までは他に浅草警察署山谷地区交番があったが現在は「日本堤交番」として一般の交番に縮小されている)

鶴間交番
つくし野駅前交番
成瀬駅前交番
金森交番
原町田交番
町田駅前交番
市役所前交番
森野交番
木曽交番
本町田交番(旧、菅原神社前交番)
山崎交番
藤の台団地交番
鶴川駅前交番
鶴川交番

高ヶ坂駐在所
南大谷駐在所
成瀬駐在所
成瀬台駐在所
玉林台駐在所
玉川学園駅前駐在所
三輪駐在所
大蔵駐在所
真光寺駐在所
小野路駐在所
野津田駐在所
図師駐在所
忠生駐在所
常盤駐在所
小山田駐在所

みうらじゅんにより、交通安全キャラクター「交通安全女子高生マチるダ」が考案され、2010年4月27日に発表された。町田市内にリス園やダリア園があることから、リス風の顔にダリアの髪飾りを付けている。

JR東日本

1908年(明治41年)9月23日 - 横浜鉄道東神奈川駅 - 八王子駅間の開通時に、原町田駅として開業(地図)。
1910年(明治43年)4月1日 - 鉄道院が借り上げ。
1917年(大正6年)10月1日 - 国有化され、国有鉄道横浜線の駅となる。
1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災で駅舎が損壊する。
1972年(昭和47年)3月5日 - 開業時から行われていた貨物取り扱いを廃止。
1980年(昭和55年)4月1日 - 駅前の再開発に伴い、小田急線の町田駅側に移転し、町田駅に改称。
1983年(昭和58年)10月31日 - ターミナルプラザ開業。ターミナル口の使用開始
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、横浜線の駅はJR東日本の駅となる。
2001年(平成13年)11月18日 - ICカードSuica供用開始。
2005年(平成17年)9月20日 - 3番線誤乗防止のため上りだけメロディ変更。新しい曲は「スプリングボックス」。
2006年(平成18年)2月 - 改札内コンコースの延伸工事完了。エレベーター・エスカレータ専用通路使用開始(店舗は未開業)。
2006年(平成18年)4月 - 改札内コンコースにNEWDAYSBeck's coffee shopなどの店舗がオープン。
2009年(平成21年)10月 - 駅構内などに設置されている案内サインの大半が、新しい省エネタイプ(薄型反射透過フィルム型)に更新される。

小田急電鉄
1927年(昭和2年)4月1日 - 新原町田駅として開業。
1976年(昭和51年)4月11日- 町田駅に改称。
1976年(昭和51年)9月23日 - 町田駅ビル完成、小田急百貨店町田店開業。
2006年(平成18年) - 駅構内のリニューアル工事が完了。エスカレータの増設やトイレの改装などが行われる。
2008年(平成20年)4月 - 新CI導入に伴い、駅構内などに設置されている案内表示が新デザインに更新される。
駅名の由来 [編集] JR東日本 [編集]駅開設当時の「原町田」とは、駅所在地の地名から名付けられた。その後、駅が小田急町田駅側に移築された事に伴い、「町田」と改称された。当時横浜線の主力だった103系が町田行として走る場合の方向幕では、当初は「町田」に置き換えられずに「原」の文字だけ消されて「 町田」となったものもあった。

改称に際しては、国鉄は当初既に存在していた宮原線(1937年開業→1984年廃止)「町田駅」と駅名が重複していたことから、難色を示した。しかし、大阪府出身の当時の町田市長、大下勝正が、東北本線福島駅(福島市)と大阪環状線福島駅(大阪市福島区)の事例を取り上げ、「既に重複している例はある」と国鉄を説き、改称にこぎつけている。

小田急電鉄
「原町田」に新しく設置された駅という意味で「新原町田」として開設された。その後、町田市の玄関口として駅周辺が発展したことに伴い、駅の大規模改良工事完成を半年後に控えた1976年4月に「町田」と改称された。この際、町田市の中心駅なのに「原」というのが駅名に付くのは「おかしい」という意見もあったという。

明治時代に横浜鉄道(現在の横浜線)が開業した当初、原町田の中心地は現在の町田市立中央図書館などのある原町田二丁目付近であり、原町田駅もここに近い位置に設置された。大正後期より昭和初期の小田原急行鉄道(現在の小田急小田原線)の建設の際、元々本町田(現在の玉川学園付近)から成瀬・金森方面へ抜ける経路で計画されていた路線を原町田方面経由に変更した際、原町田周辺が多摩丘陵相模原台地の境界部であり、周囲には深く切り立った渓谷(芹ヶ谷戸、現在の芹ヶ谷公園)や高い丘陵を避けるため北西へ迂回したことになり、路線の開業時に新原町田駅は当時の市街地から離れた場所に設置されることとなった。現在でも玉川学園から相模大野にかけては急で長い勾配が存在する。その後、両路線や原町田が発展するようになり、国鉄横浜線小田急小田原線が事実上の乗換駅となったものの、2つの駅の距離は離れており、バス停留所もそれぞれ独立した場所にあったため、利用客などから駅を移設して乗り換えを便利にして欲しいという声が高まっていた。

大勢の乗り換え客がそれぞれの駅に向かって走るので、経路になった道路は通称『マラソン道路』(または「駆け足通り」)と呼ばれていた程である。そこで、町田市などは横浜線の駅を小田原線横浜線の交差地点近くに移設しようと計画したが、これに対して2つの間にある商店街が猛烈に反対を唱えた。というのも、乗り換え客の中には途中でこのような商店街に立ち寄る人も非常に多く、駅が移設してしまうとこのような客がいなくなる恐れがあったからである。その後も反対運動が続けられ、4千人を超える署名が集められた。その後の交渉で、現状のままにする。横浜線の駅を小田原線の駅に近付ける。横浜線の駅を小田原線の駅に隣接させる。の3案が出され、長い交渉を経て2.の案に決定した。

こうして横浜線の駅は移設することになったが、これは商店街の声も一部配慮したものであった。利用客はこの案を完全には喜んではいなかった。利用客は本当は3.の隣接案を望んでいたからである。連絡通路による乗り換えには約5分掛かり、ラッシュ時などはそれ以上の時間を要する場合もある。よって、利用客の中には乗り換えが不便という声も未だに存在する。しかし、現在両路線の町田駅周辺は移転当時よりも商業地として発展していることや、ラッシュ時以外でも多数の利用客によって自由通路やペデストリアンデッキの往来が困難になる場合があるほどの激しい混雑が発生しており、現状は連絡通路の長さが利用客による混雑の緩衝となっている面もある。

隣の駅東日本旅客鉄道
横浜線
快速
長津田駅 - 町田駅 - 相模原駅
各駅停車
成瀬駅 - 町田駅 - 古淵駅
小田急電鉄
小田原線
■特急ロマンスカー
「はこね」「さがみ」・「ホームウェイ」の一部および「メトロはこね」・「メトロさがみ」・「メトロホームウェイ」・「ベイリゾート」・「あさぎり」停車駅・「えのしま」通過駅
快速急行・■急行
新百合ヶ丘駅 - 町田駅 - 相模大野駅
■準急・■区間準急・■各駅停車
玉川学園前駅 - 町田駅 - 相模大野駅